2012年3月17日土曜日

本当の安全文化とは?

メコンデルタのある村で昼食をとったとき、他の客が従業員に目の前にあるヤシの実のジュースを飲みたいと言い出した。

従業員は、早速サンダル履きのままヤシの木に登り、ヤシの実を足で蹴って落としだした。高さ3mでの高所作業だが、安全靴、ヘルメット、安全帯ともに着けていない。昇降設備も命綱もない。日本では、到底考えられないような不安全作業だけれど、彼らにとっては全く夫安全な行為とは思っていない。日常の生活の一部でもある。 
日本の多くの人が彼らの行動を見て、この国はまだ安全文化が低いと言う。

それでは、日本は安全文化が高いのか。いや、とんでもない。
コストがかかるから、市民が反対するからという理由でリスク管理を怠り、挙げ句の果て、想定外であったと行って責任逃れをする。そして、放射性物質を拡散させ多くの人に精神的苦痛をしいて真の原因追及もしようとしない。このような現状を安全文化が高いと言えるのだろうか。

安全文化は一概に見た目だけで比較することはできず、労働者や市民がどこまで危険性を許容するのか基準が異なるのが当然と考える。
日本は、発展途上国の安全文化はまだ低い、というようなことを言っている場合ではない。自らの安全文化について考え直すときである。

安全文化を市民に考えてもらうためには、技術者がその時点で考えるリスクを包み隠さず、分かりやすく説明する必要がある。また、政治家や御用学者は利権を守るために技術者の意見を意図的に隠蔽したり、自分の都合のいいことだけを取り上げるようなことがあってはならない。

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